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建築は精神の構築である
2011.07.01
白井 晟一
柿本新也

 私は白井晟一が好きである。
 明治三十八年(一九〇五年)に生を受け、昭和五十八年(一九八三年)十一月十九日、彼の遺作となってしまった京都嵯峨野の『雲伴居』の建築現場で倒れ、二十二日逝去した。
 七十八年の生涯であったが、私が好きなこの建築家との縁(えにし)はなかったことになる。
 一九八三年の三月九日、父が他界し、私が代表取締役になった年の秋に白井は逝去している。しかも京都嵯峨野の建築現場である。何とも言えぬ人生のすれちがいである。
 生田耕作先生とは、私が二十才代の頃から先生がお亡くなりになるまでおつき合いし、流政之氏とは二十数年来のつき合いであるのに、私がもっと早く白井のことを知っていたならば、きっと生前に色々な話を聞きその人となりを感じ取れたはずである。
 私が白井晟一を知ったのが一九八四年であるから、亡くなった約一年後の事になる。東京の金属彫刻家 青木秀憲氏と建築デザインの話をしていて、東京飯倉に在るNOΛビルを紹介してくれた。お城の石垣の上に、当時流行(はや)っていたカルティエの楕円柱のライターのような型をした建物が立っている。飯倉の交差点だから、モニュメンタルな建築物であったろう。NOΛビルが一九七二〜七四年竣工であるから、さながら今風に言えばランドマークということになる。
昭和四十九年(一九七四年)夏は、東京丸の内の三菱重工ビル時限爆弾事件が大きなニュースとしてTVで流れていた時代である。田中角栄がロッキード事件で辞任し、GNPが戦後初めてマイナス成長に転じ、高度経済成長から安定成長へと日本経済が変化していった年代である。村野藤吾が「日本興業銀行本店」(現みずほコーポレート銀行本店)を手がけた年にNOΛビルは異彩を放っている。

 私が石に興味をそそられたのが一九八三年。父親が他界して呆然としていた頃、家内をつれて京都 左京区の法然院にある九鬼周造の墓を訪れた時のことである。谷崎 潤一郎の寂・空やいろいろなお墓を見てるなか、何とも妙ちくりんな造形(かたち)の黒御影の墓石に出くわした。『永田家』と刻んである墓石は、すい込まれそうな黒に、安堵感のあるフォルム。手前からうしろにむかってもっこりもり上がってみがきがかけてあるのに、側面は割れ肌の状態である。家内に、「これアートやなぁ」と言って、墓の裏をまわってみると、N・SEKINEと刻んであった。関根伸夫はイサム・ノグチに師事していたから、この造形はイサムに近いものであろう。
 私は芸術の専門家でもなければ、造詣が深いわけでもない。
 ただこの年はやたらと石にこだわった。コンスタンティン・ブランクーシーやイサム・ノグチに魅了されていった。
翌年には流政之氏の『男の伝説』が手に入り、代金を支払いに庵治町のナガレスタジオを訪れ、氏の『古風なサムライ』や『雲の砦』の原型となる作品に惚れ込んでいってもう二十数年のつき合いとなっている。
 NOΛビルや流政之氏を紹介してくれ、原美術館まで案内してくれたのが青木秀憲氏であったから、氏には感謝すべきであろう。
 ブランクーシーの『空間の鳥』シリーズの中のブロンズの至極シャープな作品は、私の好きな一つであるが、値が高すぎてとてもじゃないが手に入るものでもないので、青木氏にコピーを依頼したが未だ出来上がったという連絡はない。
 山種美術館で『速水御舟』展が行なわれ、家内をつれだって見にいった時も『炎舞』の前でじっと見入っていた彼女がポツリ「お父さん、私これほしい」と言ったのにはまいった。重文である。「お前アホか。便利堂の河内さんにゆうてコピーつくってもらえ」と言った記憶がある。国の宝が個人蔵になっていいわけがない。ただ御舟の絵からは、彼の品性がうかがい知れる。私が最も好きな日本画家である。

 白井は京都生まれのボンボンであった。銅の豪商であった白井家は、『あかがね御殿』と呼ばれた屋敷を構え、京都で初めて自動車を買い、また祖父はフランス語を教えるような家柄であったが、その後没落する。
 当時の名家はそうであったのかも知れないが、四・五才の頃彼は万福寺に預けられ、作法や書の修業を受けている。

 流政之氏もまた同じように幼少の頃、等持院に預けられている事を氏の口から聞いたことがあるが、やはり類は類を呼ぶことになる。
 白井の父が亡くなってからは、姉きよの主人である近藤浩一路の家に小学校の頃から居候していたと白井が告白している。このことが後に親和銀行本店の一連の作品を生むこととなり、白井の最高傑作《懐霄館(かいしょうかん)》へと繋がっていく。
 白井は、京大の優れた美学者であった深田康算から、「誰でも建築の学校を出て建築家になるが、そうでなくて、回り道をしても人間形成とか、思想とか、いわば哲学の勉強をやった後でもおそくはないだろう。それがかえって本当の建築を勉強することになるんじゃないか」と声をかけられる。
 この深田の言葉が白井にとって一生忘れ得ぬものとなったのは、彼の一連の作品をとって見ても自明の事である。
 白井は、深田康算の推薦もあってハイデルベルグ大学に入学。ハインリッヒ・リッケルトをたずねるが、リッケルトはすでに高齢で、当時学生の間で人気の高かったカール・ヤスパースのゼミに通うようになった。後に、ヤスパースの後継者となり、バーゼル大学で教鞭をとったK・ロマンスと親交を結ぶようになったが、白井の記述によると、「当時は、大学の図書館で本を読みあさり、北仏蘭西のカテドラルやケルンのゴチックなど、片っぱしから見に行きました」とある。
 加藤哲郎氏の調査によると、白井は一九三一年〜三二年の冬学期と三二年夏学期にベルリン大学の在籍日本人名簿に記録が残されていることが判明している。
 一九三二年の日記の中で林芙美子は、「四月一日、スフレーで大宅(大屋久寿雄のこと)君と白井君に会ひ、クウボツクで、オツトカを呑み、ダンス場に行く。かへり二時、平山又泊る」とあり、以後白井とは毎日のように会うことになる。
 林芙美子は『巴里日記』の中では、「S氏」が「黒いダブルレステッドが非常によく似合い」、風邪をひいた「私」を「薄桃色の美しい沢山の薔薇の花を、白い箱に入れて見舞う」「富有な」貴公子であり、四月のパリを散歩する彼は、「紺のガウンの上から金具の美しい大きいバンドを締め」、「私」の誕生日には「王冠のついた香水と粉白粉を贈る」「清潔で温和な」ふるまいにつつまれた青年であると記述している。
 林芙美子の原日記が公表されたことにより、今川英子氏が『林芙美子 巴里の恋 巴里の小遣ひ帳 一九三二年の日記 夫への手紙』と題した書物の中でより鮮明なかたちで分析している。そして白井との恋の結末をこう読みとっている。
 「私は日本の可哀想な私の家族を忘れることがどうしてもできません。S氏よ、あなたはあなたの幸福輝くばかりの道があるでせうし、私には私の道があるのだろうと思ひます。貧しい私は、貧しい人達とともに歩む道しかありません。」
 白井は後に、当時の思い出として村松貞次郎との対談『人・白井晟一 西洋の壁を突き破ろうとした建築家の哲学と作品』(KITANO VISION 一九六九年二月号)の中で次のように語っている。
 「.........いつも休みにはパリへ行っていたんです。―中略― その大学都市の日本館に居たんです。そうしたらそこに今泉篤男がいた。今泉と一緒にときどき町へ行ったりしているうちに今泉が、そのころパリへ来ている林芙美子さんを紹介しようと言いだした。(白井が林芙美子と最初に会ったのは大屋久寿雄とであり、今泉は大屋に林芙美子を紹介されている。この記述は白井の思い違いであろう。)サンミッシェルの通りにあるカフェで会ったわけです。こんなこと自分で言うのも変だが、結局、彼女にとって男女の関係の中で僕との関係が一番純粋というか清潔な感じがしたようですね。僕はそれほど人間も出来ていなかったけど、ただ女性に対しては非常に純粋だった。そして僕に対して詩集をつくり、それをもらいましたが、それなんかに恋愛詩ばかり書いて.........非常に僕の思い出はあの人には良かったようですね。そしていろんな小説に僕をモデルに少しずつ入れちゃって、それが総合して変なことになっちゃっていますが。」
 東京浅草善照寺本堂『伽藍』が一九五八年(昭和三十三年)竣工し、翌年『近代建築』五月号で善照寺によせてと題し川添登他何人かの識者からなる特集を組んでいる。その中で流政之氏は、「設計のなかの孤独」という文章で次のように評価している。
 「やわらかな線をえがきながら ゆるやかに傾斜する屋根 整いすぎるほど整つた内部 それをつつむ冷徹な白い壁......それが白井晟一の設計になる善照寺の新しいお堂である。 ―中略― 白井晟一は風土のなかの民衆的な建築家であるように 一部の人から言われているが 彼が建築に傾けるこころと生活は 民衆とともにあるものではなく求めるその様式も 貴族的とも言うべき静謐な美を追求し 民衆のものからは遠い。(彼の仕事の多くが邸宅や料亭の設計であるように)
 彼の設計はその風土にとけこみ 農民や民衆とともに生き 考えてゆくものではなく 強い個性 自己の信念のもとに 自身の好むもの 好む形を創造しているのである。それが彼の作品を美しく静かなものとしているのである。それだけに彼を騒々しい建築界の外で 自由に そつとして 仕事をさせるべきではないだろうか。」と.........。

 流政之氏の眼力通り、そっとしておくべき存在の白井の行動は、高村光太郎賞受賞という建築界以外のところで評価を得ることになり一転する。それは当時の建築界にとって大きなアンチ・テーゼとして存在していく。
 佐世保にある親和銀行本店の第一期工事は一九六六年から六七年にかけ完成している。この「親和銀行本店」が建築界に与えた影響は多大なもので、白井の代表作として戦後日本建築界における傑出した作品となる。翌年には、建築年鑑賞、建築学会賞、毎日芸術賞と総なめにし、一九七一年には建築業協会賞も贈られる。
 親和銀行第一期工事が完成した翌年、並びに賞を総なめした一九六九年には、村松貞次郎との対談『人・白井晟一西洋の壁を突き破ろうとした建築家の哲学と作品』をはじめ、『朝日新聞』、『建築年鑑69 』、『建設ニュース』、『建築雑誌学会賞受賞にあたって』、『週刊新潮』、『近代建築』、『建築文化』、『建築』、『新建築』、『インテリア』、『SD』、『建築画報』、『芸術新潮』、『日本の現代住宅Ⅰ』、『木造の詳細』と、ありとあらゆる雑誌で白井が取り上げられている。

 親和銀行本店第二期工事は、一九六八年から始まり一九七〇年に完成している。又、自邸『虚白庵』を一九六七年から建築し始め一九七〇年に完成させ、『顧之居書帖』として書の作品も発表した。
 白井、時に六十五才であった。
 一九七二年から着工していた東京飯倉のNOΛビルは七四年完成するが、その間ヨーロッパへの旅は幾度となく行なわれ、《懐霄館》の構想はもうすでに始まっていた。
 道元の『正法眼蔵』をたずさえイタリア北部コモ湖を訪れた白井の頭の中に、若き日にドイツに留学し、ゴチック建築をまのあたりに見すえた彼の眼の中で《懐霄館》にはせる思いはいかなるものであったろうか。
 一九八〇年夏号として創刊した文藝春秋社の雑誌『くりま』の中で、『建築と書』というタイトルで白井は栗田勇と対談し、その対談の中でこう語っている。

「僕は自分の建築精神というものを説明したことは一度もない。だけど僕なりに、いまのような時代に対して決して喜んでいませんし、賛成していません。あるいはもっと積極的に自分だけしかやらない、やれないことをやりとげるよりしようがないと、そういうところで今までやってきましたね。やっぱり、結局は孤高とか異端とか、ある意味の古典主義だとか、僕のやり方は敬遠されてきたと思いますよ。― 中略 ― 建築の主体ということを考えるとね、近代化とか高度成長とか、いつも主体は向う側にあって、建築が主体を持ったことはないわけですよ。だから建築が精神の構築であるはずがないんです。建築の精神性というのは、僕にとって朝から晩まで、日課してる思想なんてものじゃなくて、生理ですよ。だけど、それを僕は一言も言ったことはない。― 後略 ―」
若き日に西欧に留学し、その歴史観や哲学、思想というものを身体に取り入れた白井の精神性と、京都に生まれ、奈良の古寺を訪ねまわった純然たる日本文化の魂を持ち合わせた男の、何ら矛盾のない精神性の中で存在する白井の人間性。
白井は若い日に、「建築家になるというよりは、人間を学びたかった」と回想しているように、それを哲学によって認識を深めたいと考えるようになった青山学院中等部の時代から、戸坂潤や田辺元、そして深田康算といっためぐまれた人たちとの交流の中でドイツ留学を成し、カール・ヤスパースの本場の哲学の講義と西欧の建築史を学んだ青春時代の布石と本来の白井自身がもっている日本的美意識が折りなし、白井独自の精神構造を形成していくことになる。
本の装幀の仕事も、建築の本来の仕事も、五十五才を過ぎた頃から毎日何時間も書き続けた書に対する執念も、それら全ては白井自身の人間の探求の現われであり、彼の精神の中での思想、哲学、美意識が、日本古来の美意識と西欧のそれとの中で、何ら矛盾することなく存在している姿は他者から理解しにくいものなのかも知れない。
そんな中で完成を見た《懐霄館》は、一九七三年に着工し一九七五年に竣工をしている。
時に白井晟一、七十才であった。
「六十からの十年間を大切にしないといけない」とかねがね語っていた白井の予言通り、彼の最高傑作は完成した。
高村光太郎賞の審査員の一人であった草野心平と『「書」について』と題した対談の中で、草野心平の詩と墨跡の同一性を解いた白井に草野は、「すると白井さんの場合は、哲学が根底にあるのかな」と切り返され、「いやいや(笑)」と言いながら本当にうれしそうに、はにかみながら笑っている白井の顔が想像されるこの対談の文章は、生前に白井と邂逅できなかった私の無念を、彼のそう多くない書物からうかがい知れる事でかえって私が白井研究に没頭できたのかもしれない。

稀有(けう)なことであるかもしれないが、いつの時代にも高貴な精神を求め哲学する人がいる。
白井晟一もまた、その一人であったのではなかろうか。


二〇〇九年七月七日 未明
追悼
白井さんと枝垂桜

前川 國男
   朧夜の
     さくらに
       すゞを
         なせつけぬ               鏡花

......これで出来なきゃ、日本は闇よ。ふっとよぎった泉鏡花先生の科白の断片を、私は胸中で呟いた。箱根国際会議場競技(コンペ)設計の審査が終った夜だった。白井(晟一)さんと私は、何ともやりきれない気持で、二人とも仏頂面をして、黙りこくって車を走らせていた。コンペ応募案には否応なしに日本の建築家の現状が浮き彫りされていた。考えてみれば、このコンペが失敗に終るのは当然の帰結であった。戦後、水ぶくれ状況のまま推移してきた日本の建築界に、期待をかけるほうが無理というものだった。...... ― 中略 ―
 ところが、その現場で、肝腎要の御本人が仆れてしまった。白井さんの訃報は、花を散す一陣の強風のように私の胸中を吹き抜けた。日本の闇を見据える同行者はもはやいない。
『風声一七号』(宮内嘉久編集、㈱岡澤発行)より
※白井晟一の年譜 及び参考文献 略
白井晟一・一周忌記念シンポジウム「白井晟一と現在建築」

― 前略 ―

 世界の建築の賞の中にプリッカー賞という賞がありますが、これは建築のノーベル賞という触れ込みでつくられた賞でして、 ― 中略 ― フィリップ・ジョンソンとか、ルイス・バラガン、あるいはリチャード・マイヤーといった人たちがこの賞をもらっております。
 磯崎さんは今は確か審査員をやっておられませんが、先年までは審査員で、日本からも誰かということで、実は何年も前から白井晟一さんの作品の資料を持っていって、審査員みんなに見せたというのです。
 ところが、ヨーロッパの古典的な様式とか中世の建築については非常によく知っている向こうの人たちなので、白井さんの歴史的な様式の建築を見せますと、みんなが「これは偽物だ」という具合に最初は言ったそうです。それでも磯崎さんは、ぜひ白井さんに差し上げたいということで、その次の年も、またその次の年もずっと持っていくうちに、だんだん審査員の受け取り方が変わってきたというのです。そのうちに、これはどうも本物らしい、あるいはまた、こういう歴史的な意匠の建築があってもいいじゃないか、という具合に座の空気が変わってきたそうです。磯崎さんは今年から審査員をはずれたのですが、実は先日、磯崎さんのところにそのプリッカー賞の審査委員会から、白井さんにぜひ賞を差し上げたいという電話があったそうです。磯崎さんは、昨年白井さんがお亡くなりになったということを返事なさった。一応賞の規定で、これはご存命の方に差し上げる賞だということになっているのですが、磯崎さんは昨年亡くなったばかりだから差し上げてほしいと喰い下がられ、また向こうの審査員たちも非常にがっかりしたそうですが、結局お亡くなりになったということで賞の贈呈は沙汰やみになってしまったそうです。
 このお話と同じように、白井さんの建築は歴史をやっている人たちから見ると、石の積み方を初め、本当に西洋の様式に則っているのかどうかということは、いつも議論になるところですが、本場の向こうの人たちが、ずっと白井さんの建築を見ていくうちに、こういうやり方もあるんだという具合に容認して、遂には世界的な賞を差し上げるところまで衆議一決したところが面白いと思います。
(松葉一清 談)

ここに収録したシンポジウムは 「白井晟一と現代建築」 の表題のもとに、白井晟一・一周忌行事実行委員会(川添登氏、浅野敞一郎氏ら)主催、日本建築学会・朝日新聞社後援によって、一九八四年十一月二十一日、朝日新聞東京本社朝日ホールにおいて行なわれた催しの記録である。

<シンポジウム>  「白井晟一の残したもの」
<パネラー>  芦原義信 長谷川堯 毛綱毅曠 鈴木博之
<司会>  松葉一清
情報誌『紙司柿本』 2009 秋 ー黄昏ー 号より
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